スポンサーサイト

  • 2013.03.24 Sunday
  • -
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


めざすは、おもしろいヤツ

 
おはようございます。

元気ですか!!



今日から業務の都合上

このブログのアップを

日曜日と木曜日に変更させていただきます。

急で申し訳ありませんが、

これからも宜しくおねがいします。




今日も一日100%の自分でいよう!
 
もしも・・・
今日は70%でいいやって思ってしまったとしたら、
その延長で明日やってくる。
 
これって毎日が70%ではないよ。
だって今日の70%が基準で、また70%だよ、わかりますか?そうです、明日は49%になっちゃうよね。
 
自分のレベルを日々高めていく意識を持ちましょう。
できるとか、できないとかではなく、その意識を持ちましょう。
 



では今日もイイ話を2つ紹介しちゃうね!!



【めざすは、おもしろいヤツ】


岡野工業の岡野雅行氏の心に響く言葉より…


「あのヤロウ、あんなにいい加減に見えて、筋だけはきっちり通すじゃねぇか。

人間としちゃあ、なかなかのもんだぜ。

おもしれぇヤツだよ」


そんなヤツにはどんどん人が寄ってくる。

いろんな人と出合って、もまれて、つきあいの幅も広がるし、おもしろさにも磨きがかかってくるんだ。

そうなりゃ、仕事だっていいほうに回っていくね。


「今度の仕事、あいつにも声かけようか。

あいつがいると、まわりが和むし、仕事も楽しくできるからさ」

ってな具合だよ。


どんな仕事だってムードメーカーが必要なんだ。

おもしろいヤツはこのムードメーカーにうってつけ。

何かにつけてお呼びがかかるね。


俺はできるんだ、頭がいいんだ、とふんぞり返ってちゃ、こいつはできない相談だ。

ムードメーカーには逆立ちしたってなれないよな。


頭がいい、ってのは疲れていけないよ。

そんな自分を保つために、スキを見せちゃいけない、脇を甘くしちゃまずい、っていつも考えてなきゃなんないんだからさ。

だけど、俺に言わせりゃ、スキも脇の甘さも愛嬌なんだ。


「あのヤロウ、また、やっちまった。

しょうがねぇな、ここは俺が出ばるしかないか」

人さまが「こいつのために何かしてやらなきゃ」と思うのは、愛嬌たっぷりのドジさ加減に可愛げがあって、「しょうがねぇな」と感じるからなんだよ。

四方スキなし、脇ガチガチ、なんてヤツには何にもしてやる気になんかならないね。

めざすは一つ、「おもしろいヤツ」、これしかないね。

『カネは後からつてくる!』青春出版

 

優等生で頭のいいヤツはつまらない。

はずれたところがないからだ。


そつなくまとまった人には、可愛げがない。

失敗しないようにと、ガチガチに脇を固めているからだ。

自分をさらけ出せない人とは、肚をわって話が出来ない。


可愛げのない人は、人からのヒキがない。

つまり、お呼びのかからない、人気のない人。


“めざすは一つ、「おもしろいヤツ」”

愛嬌があって、可愛げのある、おもしろいヤツでありたい。

 




ではもう1つ



ディズニーのキャストは、ゲストに写真の撮影を頼まれる機会が少なくありません。


なかには、アトラクションを背景にしたいなどの理由で、逆光状態でもかまわず、


「写真を撮ってください」


と撮影を依頼してくるゲストもいます。


そういうときは、


「逆光ですから、ちょっとこの方向はムリです」


と言うのが普通ではないでしょうか。


しかし、


ディズニーのキャストは、逆光のときは、どうすればよいのかと考え、勉強するのです。


そして、


「逆光になりますが、いいですか」と問い、


「いいです」という答えが返ってくれば、


「じゃ、少しでも光が入らないように撮りますね」と言ってレンズの上に手をかざして撮る、


あるいはフラッシュをたいて撮る、など工夫します。


場合によっては、キャストが木陰に入ってそこから撮るといった方法もとります。

 


「9割がアルバイトでも最高の感動が生まれるディズニーのホスピタリティー」

福島文二郎 著

中経出版より




ディズニーのキャストさんは、どんな場面でも「できない」とは考えず、


「何ができるか」「もっとよい方法はないか」といつも考え、勉強しているそうです。


喜んでもらえたら、


もっと喜んでもらえるようにする!


そうして感動と伝説が生まれていくのでしょうね♪

 

 

「お客様に対しては、いつも少しでも付加価値を与えてあげるんだ。


投資の価値はあるよ。


もし人が来なくなってしまったら、


また来てもらうには十倍の費用がかかってしまうのだから」


 by ウォルト・ディズニー(ディズニー創業者)


 


最初にやった人

 
おはようございます。

元気ですか!!




本日はブログデ−ではありませんが、明日書いている時間がないので、

本日アップします。




30分ほど前の出来事です。

自分でもなかなか「いいな」と思える傑作ブログを書き終えて、

後はタイトルを入れると言う時、



「ポチッ」



違うスイッチを押してしまい

その傑作が消去されてしまいました(汗)






負けてたまるか(笑)


気をとりなおして


今日もイイ話を2つ紹介しちゃうね!!






物事を最初にやった人ってすごいですね♪




「コンフィデンスシンキング」

泉 忠司 著

扶桑社より





飛行機だってロケットだってパソコンだって携帯電話だって、

100メートルを初めて9秒台で走った人だって、

存在していない時代にあっては、

世界中の誰もが未知なのです。


未体験なのです。


根拠なんてなくても、

「必ずできる」「できないわけがない」と絶対的な自信を持っているからこそ、

実際に現実のものとなったのです。


人間の力を甘く見ている人があまりにも多いです。

現代社会に生きていると当然のように感じているかもしれませんが、


冷静に考えてみてください。

人間が実現していることは、考えられないくらいすごいですよ。


飛行機を造って空を飛び、

潜水艦を造って海底に行き、

ロケットを造って宇宙に行き、


寒いと思うとエアコンで部屋を暖かくする。

ポケットから携帯電話を取り出してボタンを押せば、地球の裏側の人と話ができる。


携帯電話なんて、何十年か前なら、映画「007」シリーズの主人公ジェームズ・ボンドの秘密兵器です。

それを今や小学生でさえ持っています。


挙げ句の果ては、遺伝子操作に人工授精。

もはや神の領域じゃないですか。


しかもそれで、人間は脳全体の数パーセントしか使ってないというのです。

あなたも間違いなくそのような人間の一人なのです。



「人間は、だれもが限りない可能性を持っている。

しかし、同じ炭素でも、高圧と高熱を加えられたものはダイヤモンドとなるように、

人間も潜在する力をどう磨き、発揮させるかで、その人生の輝きは大きく異なってくる。

ゆえに、正しい方法で、自己を磨き、ダイヤのように自らの力を輝かせていくことが大切である」

 by カーン博士(ベルリン自由大学教授)








ではもう1つ





「9割がバイトでも最高の感動が生まれるディズニーのホスピタリティ」

福島丈二郎 著

中経出版より




私が、ナイト・カストーディアルでトレーニングを受けていたときに聞いた話です。


ナイト・カストーディアルのキャストたちは、


なんとトイレの便器1つひとつに、


たとえば、「ナンシー」とか、「キャシー」といった人の名前をつけて清掃しているというのです。


もちろん、手鏡をもって便器の縁の裏側までしっかり洗うなど、


小さな感動を生み出すためのルールが細かく定められています。


ナイト・カストーディアルのキャストたちは、そのルールをしっかりと守ったうえで、


さらに自分たちで、「ナンシーはきれいだが、キャシーはきたない」

といったことがないように、愛情をもって一生懸命清掃に取り組んでいたのです。


ゲストに少しでも気持ちよく利用していただきたいという、

キャストのホスピタリティがあればこその行動といえるでしょう。





「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。


そんな夢の世界を作りたい」


 by ウォルト・ディズニー(ディズニー創業者)







卒業式のお話

 
おはようございます。

元気ですか!!



「自分の人生をどこから見るか」
ってとっても重要ですよ(^_-)

現在から未来を見る視点・・・もちろん大切です。

一度この視点はいかがでしょうか?
「人生最後の日」から今の自分を見る視点です。

未来に対して目標設定し、
チャレンジして達成した暁に、
到達地点を間違えたことに気付く人が多い。
というお話たくさんありますよ。

それは・・・
「人生最後の日」から逆算して、
目標設定しなかったことが最大の原因ということですね。

さあ今日一日・・・


「後悔しない人生」に繋がる一日なのかどうかという視点でチェックしてみましょう!!




では今日もイイ話を2つ紹介しちゃうね!!


【ヘレン・ケラーが尊敬した日本人】


『13歳からの 道徳教科書』の中から、心に響くお話です…


アメリカの教育家・社会事業家のヘレン・ケラー(1880〜1968)の名前は、世間に広く知られています。

目が見えず、耳が聞こえず、話すこともむずかしいという苦難の中で、言葉を覚え、知識を身につけ、21歳でみごとハーバード大学付属のラッドクリフ女子大に入学。

その後は、視聴覚に障害を持つ人々に対する偏見や差別をなくすため、アメリカ国内はもとより世界各国で講演を行ったほか、数々の福祉事業の発展に生涯をささげた人です。

では、そのヘレンが、人生の目標として尊敬した日本人がいたことをご存知でしょうか。

その人の名は塙保己一(はなわほきいち)。


ヘレンは、その塙保己一について次のように述べています。

「私がまだ小さいとき、母は塙先生のことを、繰り返しこう話してくれました。

『ヘレン、日本には幼いときに失明し、しかも点字も何もない時代に、努力して学問を積み、一流の学者になった塙保己一という人がいたのですよ』と。

時にはくじけそうになったこともありましたが、この母の励ましによって現在の私があるのです」


塙保己一は、今からおよそ200年前の江戸時代後期の国学者です。

7歳のころに病気で失明しましたが、勉強好きで記憶力のよい保己一は、学問で生きることを決意し、15歳で江戸に出て、雨富(あめとみ)検校のもとに弟子入りします。

雨富検校は、当時、目の不自由な人の仕事とされていた三味線や琴、鍼やあんまなどを行う人々を監督していました。

ところが学問好きの保己一は、その生活になじめません。

悩み苦しんだ保己一は、川の淀みに身を投げてしまいました。

幸い一命はとりとめたものの、仲間内では「落ちこぼれ」扱いされたのでした。


しかし、保己一の望みを知り、その才能を見抜いた雨富検校は、「三年間だけ好きな学問をしてよい」と言って励ましてくれました。

意欲を取り戻した保己一は、懸命に勉学に打ち込みました。

人並みはずれた記憶力を持つ保己一の噂は広まり、縁が縁を呼んで学者への道が開けていき、やがて大学者として世間から認められるまでになったのです。


保己一は、いったん大きな挫折を経験したことから、その際に自分を支えてくれた師匠の温かさや多くの人々の励まし、その大切さ、大きさに気づきます。

そのため彼は、自分に与えられた能力と人生を、自分のためにではなく、人々のため、世の中のためにささげることを決心しました。


34歳のとき、保己一は各地に散らばる貴重な古書を集めて本にすることを志しました。

40年後の74歳のときに完成したのが『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』です。

『群書類従』は、法律、政治、経済、文学、医学など、あらゆるジャンルの貴重な史料が収められた666冊におよぶ大全集で、今日でも日本の故事を研究するのに欠かせない書物です。

『13歳からの道徳教科書』育鵬社

 

奇跡の人、ヘレン・ケラーが尊敬し、目標としていた唯一の日本人が塙保己一。

日本を初めて訪れたときも、塙保己一ゆかりの温故学会を訪れ、保己一の像と対面している。


保己一の日本の史料編纂(へんさん)は、現在も営々として引きつがれている。

編纂の形式は、最初に要約を記し、後に史料を原文で引用していくという方法をとっているが、これは保己一がつくりあげたやり方を、現在でもそのまま踏襲しているという。


点字もないし、録音する道具もない時代、、不屈の意志力と熱意で、幕府を動かし、金策し、今でいう大学と研究所を創設し、出版事業までやってのけた保己一。


ある夜、保己一が源氏物語の講義をしていたが、風のため灯かりが消えてしまったという。

弟子があわてて、「先生、ちょっとお待ち下さい」と言ったところ、事情を知った保己一は、「さてさて目明きとは不自由なものだなあ」と笑ったという。

「障がいは不自由であっても、決して不幸ではありません」と語るヘレン・ケラーと共通するどこか突き抜けた、さわやかさがある。


江戸時代の川柳で、「番町にすぎたるものが二つあり、佐野の桜と塙保己一」と詠われたほど、庶民にも人気があった保己一。

不撓不屈(ふとうふくつ)の人、塙保己一を日本人の誇りとしたい。







ではもう1つ




卒業式のお話し♪

 

僕は、小学生の5・6年位から、学校をよく休むようになりました・・・


原因はいじめです。


中学生の頃は、保健室に登校するものの、


自分のクラスには行くことが出来ませんでした・・・


静まりかえった廊下の先にある、クラスの教室に近付くと呼吸が早くなり、


苦しくなって保健室に戻ってきます・・・


もういじめられる事は、無くなっていたにもかかわらず、


身体が言う事を聞きませんでした。


保健室に担任の先生が、ちょくちょく顔を出しては、たわいもない話をして帰りました。


先生の話は好きだったんですが、だんだん学校に来るのが面倒になり、


週に一度が月に一度になりました・・・


だからといって、何をしていたかと言われてもあまり思い出せません。


ただ生きていただけなんだと思います・・・


そんな僕が変わったきっかけがあります。


中学生最後の日、卒業式


この日だけは、母親にも心配かけたくないと思い、嫌々だったけど登校しました。


あまり汚れていない制服を着て、学校に行ったけど、


やはり式に出る勇気がなくて、


結局いつもの保健室に行きました・・・


すると、


一年と三年で担任だった先生が、


目に涙を溜めて待っていました・・・


先生は、こんな僕に卒業証書を読み上げ、


卒業おめでとう!と、授与してくれました。


さらに、


泣きながら僕に言いました・・・


「俺は・・・、


ごめん・・・、


何にもしてあげられなくて・・・、


先生が悪かった・・・」って、


家に帰って母親に卒業証書を見せると、


母もまた、泣きながら、


「ごめんなさい・・・


私が・・・


何もしてあげられなくて・・・」って・・・


何もしていないのは僕だった・・・


この日から少しずつ変わって行った気がします。


僕にとっては入学式のような卒業式でした。

 

 

「ミスを他人のせい、クラブのせい、雨や風のせいにするゴルファーはどこかで自分に負けている。」


 by 塩谷育代(女子プロゴルファー)

 

 

 


上機嫌

 
おはようございます。

元気ですか!!



今日はブログデ−ではありませんが、

明日書いている時間がないので本日アップします。





 
みなさん間違わないで下さいよ(^−^)
 
誤りはあっていいのですよ。

そこから学べばいいのです。


一番ヤバイのは、「誤りを犯さないか」と絶えず恐れ、行動が止まることだよ。
 


失敗を恐れると、チャレンジできなくなる。
 

私は、勝手にこう考えています。

チャレンジしない人生を歩むこと自体が、恐怖なのです。
 
 
 
さあ・・・


今日もどんどんチャレンジしていこう。
 

あなたの人生は、あくまでもあなたの視点で創造していくものなのだ。







では今日もイイ話を2つ紹介しちゃうね!!






【人を笑顔にできるものはないか?】


カリスマバイヤー、藤巻幸大氏の心に響く言葉より…


よく人から「元気ですね」とか、「どうしてそんなにいつも元気なんですか?」と聞かれる。

僕はとくに自分が人一倍元気がいいとは思っていない。

ただ、いつも上機嫌でいたいと思っているし、周りを楽しくさせたいとは思っている。


上機嫌になるのは難しいことではない。

気に入った服を着て、気に入った場所で、大好きな食べ物や飲み物、そして大好きな人たちに囲まれていたら、不機嫌になれといういうほうが無理だ。

僕が元気に見えるとしたら、きっといつも自分をそういう状況に置こうとしているからだと思う。

そしてそのためには日頃からいいものを選ぶ習慣が大事なのだ。


実は僕は、よく100円ショップに行く。

人を楽しませるという意味で、とても役に立つからだ。

その中で僕が決まって買うのが手品グッズ。

オフィスの人たちや商談や取材で訪れた人たちに見せて楽しんでもらう。

それで雰囲気が和やかになったり、話が弾んで仕事がうまくいったりするのだから、100円以上の価値があるというものだ。


手品の他にも、人に見せたら思わず笑ってしまうような変な商品を探す。

そうした宴会グッズやパーティグッズのようなものが結構売られているので、それらも人とのコミュニケーションのネタになる。


僕は人が楽しそうにしているのを見るのが好きだ。

人がワイワイ楽しそうにしている空間が好きだから、何とか自分のいる空間はそんな上機嫌で楽しい空間にしたいと考える。

そのため100円ショップにかぎらず、街に出ると変なものを売ってそうなお店やコーナーを気が付くと探しまわっている。

これはいわばネタ探し。

面白そうなものを目にすると、ついワクワクして購入してしまう。

そんなグッズを使って皆を笑顔にすることで、自分も周りも元気になっていく。

元気な人には人が自然に集まる。


「人を笑顔にできるものはないか?」

という視点で買い物をしてみよう。

きっと、今まで気付かなかった商品に出合えるはずだ。

『目利き力』PHPビジネス新書



周りが笑顔になれば、自分も笑顔になって、元気が出てくる。

人を笑わせることは、楽しみの中でも極上の楽しみだ。


自分には、ユーモアのセンスがないから、人を笑わせるのはハードルが高いという人がいる。

しかし、話術がなくとも、手品や、面白グッズがあれば、人を大笑いさせることもできる。


大事なことは、「人を笑顔にしたい」という意識を常に持っているかどうかだ。

周りを楽しくさせれば、自分も上機嫌でいられる。








ではもう1つ







綾小路きみまろさんは、長い間キャバレーでの司会者や漫談をしていました。


苦節30年ようやく世にでました。



 漫談をやりたかった。

 その思いが、私をずっと支えてきました。

 自分の話で人が笑うのは、私にとって何にも換えがたい喜びなんです。


 司会者時代も、私はいつも「どうしたらこのお客様は笑うか」ということばかり考えて、勉強していました。

 今は逆に、勉強する時期がありません。


 芸人はこうやって駄目になっていくんです。

 飽きられて、2年後には、『あの人は今』に出ちゃうとか。

 咲いた花は散るんです。



 でも、私は売れたとき、すでに50歳。

 もし30代で売れていたら、「何とか残ろう」としがみついたでしょうが、今、花が咲いて枯れるように、自然体でいいと思っています。


 声がかからなくなっても、売れなかった昔に戻るだけ。


 どこか引いたような枯れた芸を60代以降にできれば・・というのが今の目標です。


 「継続は力なり」ということを、私は身をもって体験しました。

 30年間「もうちょっと頑張ってみよう」「もうちょっと」「もうちょっと」とやって来て、ようやくひと花咲かせることができました。


 信念がある人は長い目で自分を育てていけばいいんじゃないでしょうか。


 人間は自分を育てていくことが人生です。

 あきらめないで、信念を持ってやってほしいと思います。


 どんな仕事にも共通することですが、

 今いるところで一所懸命働いて、駄目な者は、

 よそへ行っても、だいたい駄目です。


 人は歳とともに体力がなくなってきますから、早く自分が続けられることを見つけて、

 一筋に頑張って欲しいですね。








なぜ、はたらくのか

 
おはようございます。

元気ですか!!



「そのうちやる」って・・・


いったいいつ?(笑)


その名の通りを歩いて行き、行き着くところは「なにもしない」ってことかい。
 

「そのうちやる」と言ったことで、

そのままになっている事は意外と多くありませんか?


これは私もたくさんありますねぇ
 

「そのうちやる」という言葉は、

無意識の中では「なにもしない」という意味と同じゃないかな!
 

「今すぐやる」という言葉を使う習慣を持てば、

きっと人生は発展的に開かれていくとおもいますよ。
 



では今日もイイ話を2つ紹介しちゃうね!!





走り高跳びという競技では、


背面跳びという跳び方が現在の主流です。


その背面跳びが世の中に出る前までは、


正面跳びや、はさみ跳び、ベリーロール、という跳び方が主流だったんです。


では、


いつから背面跳びになったのか?


1968年、


メキシコシティオリンピックで、


ディック・フォスベリー選手がこの方法を用いて金メダルを獲得して以降、急速に普及したといいます。


最初に背面跳びをしたフォスベリー選手、


結果を出すまでは「今だかつて考案された中で、最も滑稽な跳び方」と記事にされ、


みんなにバカにされたそうです。


それでも辞めなかったのは何故なのか?


彼にこんな質問をした人がいます。


「背面跳びを始めた時、それが世界を変えると思っていましたか?」


それに対して、


「I have no idea(見当もつかない)」


「世界を変えようと思ったわけではない、ただ、走高跳を続けたかっただけなんだ」


走り高跳びが大好きだったんですね♪


従来の跳び方では記録を出せなかったフォスベリー選手。


だからあきらめるのではなく、


じゃあどうするのか!


この発想、めっちゃいいですね♪♪

 

「世界一になる!と決めると、


全ての発想と行動が世界一を前提としたものになって、


いつか本当に世界一になってしまう事がある」


 by 福島正伸(コンサルタント、アントレプレナーセンター代表)








ではもう1つ


清水克衛さんの新刊

 「非常識な読書のすすめ」の中の話です

 

 94歳の理容師、加藤寿賀さんと言う方が書かれた

 「なぜ、はたらくのか」という本があります

 

 この本の筆者加藤さんは、床屋さん。


 子供のころに関東大震災に遭遇、戦争では店が全焼。


 その間、二人のお子さんを守るため

 必死になって床屋さんをやり続けます。

 

 そんな中、戦争に召集されて戦死したと思っていたご主人が

 突然無事に帰って来ます。

 

 「あーこれでやっと家族一緒に過ごせる」

 と思って安心した途端

 御主人が交通事故で亡くなってしまうのです。


 戦争中に受けた爆風で耳が不自由だったことで

 交通事故に遭ってしまったのでした。


 それでも働き続ける母の姿を見て

 「私もお母さんようになりたい、だから後を継がせて」

 と言ってくれた娘さんを、病気で亡くしてしまいます。


 たくさんの艱難辛苦を乗り越えて

 94歳になるまで理容の仕事を続けた人なのです。

 

 そんな大きな悲しみを背負っていても

 彼女は本の中でこう言います


 「『生かされているだけでありがたい』

 と感謝の気持ちを持ち、自分の出来ることをしっかりやって

 後は運を天に任せていれば、たいていの事は乗り切れるから不思議です


 94歳のばぁさんが言うんですから間違いありません(笑)


 何があっても乗り切って

 いつか『あのときこうだったね』って笑って話せるように」


 このおばあちゃんはこうも言っています。


 「『自分が良くて、あなたもいい』

 は誰にも出来ることなんです


 『あなたをよくするために、私もよくならなくては』

 という思いを持って生きなくてはなりません」

 

 「あなたをよくするために、私ももっとよくなる」

 が本当の仕事人と言う事です。


 


命の記録

 
おはようございます。

元気ですか!!



今日はブログデ−ではありませんが、明日から南三陸町に行くので、

本日アップします。




東日本大震災から1年、お亡くなりになった多くの方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

被災地に暮らす、多くの皆様にお見舞い申し上げます。

‘今日,という一日を、‘唯今,という今を大事に生き抜きます。            





では今日は2つの話を紹介します。





「日の丸」を背負ったアメリカ人「シンディローバー」


2011年3月11日

私達は忘れない。



東日本大震災。


あれから今日で一年たちます。


私達はたくさんの同胞を喪いました。


私達は未来を担う子ども達を喪いました。


何も聞こえてこない街角。


そこにあっただろう親子の団欒。


祖父、祖母、父、母、兄弟、姉妹、そして大切な友、恋人。


死者・15853人、行方不明者・3286人、合わせて19139人。

【警察庁緊急災害警備本部広報資料 (2/22)】



未曾有の大震災。



私達日本人は幾多の困難を乗り越えてきました。


「シンディローバー」はご存知ですよね。


多くの外国人が海外に脱出するなか、

あえて日本に来日して2011年3月16日から予定通りコンサートを決行。


更に会場でチャリティのための募金を呼び掛け、コンサートをチャリティイベントにしてくれました。


また、大阪滞在時に友人の湯川れい子へ


「こういう時こそ、日本にくることが出来て、私の人生の中でも名誉なことでした。ありがとう」


と綴ったメールを送っている。



「日の丸」を背負ったアメリカ人「シンディローバー」


大阪公演の中、一人の女性が彼女に想いを伝えた。



〜〜〜〜〜〜〜〜



私は、彼女に手紙を書きました。


「シンディ、あなたの立場 私は、理解しています。


分かった上で、私はあなたにお願いがあります。


しかし、あなたが嫌なら断わって下さい。


ここに、日本国旗があります。


この国旗には、被災者の方、東北地方のあなたのファン今回のツアーに来れなかったファン 被災にあって家族の安否がわからない私の友人 色々な思いが込もっています。


あなたに、シャインを歌う時に背中に背負って欲しい。


だめなら、このまま、広げずそのままにして置いて下さい。」


この時点で、観衆は国旗の存在が分かりません。


馬鹿なファンの、戯れとその場を 収める事が出来たはず。


私も、その為に小さくたたんで 手紙の下に置きました。


「Cyn!」と私が声をかけた時 彼女は、「What?What?」と。


その時の彼女の顔、今でも忘れない。


多分、おかしなヤツが来た、どうしよう?と思ったはず。


複雑な表情だった。


「Okay.What?What?」 そして、手紙を手に取り 読みながら 「Oh〜.Okay Okay」とつぶやいていました。


それから国旗の淵をつまんで、悪戯っ子の様に微笑みながら 徐々に彼女の胸元まで引き上げ、そこで国旗を広げた。


そして、彼女は背中に羽織ってシャインを。


彼女は、リスクを背負って日本の為に 受けてくれた。


あくる22日、Cynは、私が送った国旗をドラム横に畳んで用意していた。


その日は、ニコ動生中継。


そして、「I love Japan.」と言って背中に国旗を。


そういえば、誰かが呟いていた。


金髪に、ピンクの肌、衣装の黒、そして国旗の白と赤 すごく、美しかったと。


私も、そう思った。このビデオは、22日の静止画を使い21日の音声と合わせて21日当日の模様を再現しました。


〜〜〜〜〜〜〜〜


シンディが何故、日本公演にこだわったのか?


彼女が定職もなくブラブラしていた時、レストランを経営していた鈴木サクエさんと出逢った。


鈴木さんが「それじゃ駄目だから自分の店で働きなさい」と誘ってもらったとのこと。


鈴木さんはシンディに限らず、シンディのバンド仲間やまだ活躍していない色んなアーティスト達を助けていた。


鈴木さんは常にシンディに「いつか売れる日が来るから頑張りなさい」と激励をしていたという。


この鈴木さんとの出会いがシンディを日本贔屓にさせる切っ掛けとなった。


日本人に助けられた思いが彼女を揺り動かした。


今日も彼女は片言の日本語で「ガンバレー」と語っているに違いない。


ありがとうの言葉しか見つからない。


今こそ私達は日本人のDNDに眠っている「大和魂」をほり起そう。


こころを震わそう。


未来を担う子ども達の為に。











ではもう1つ





 「命の記録」より

 


運命を分けたのは、わずか50センチの高低差だった。


地震で壊れた自宅屋根の修繕を終え、

1階居間の片付けに入ろうとした仙台市若林区沿岸の無職、大友文男さん(77)は地平線いっぱいに広がった黒い津波が100メートル先の市道を越えるのを見た。


妻のサチ子さん=当時(76)=は居間より50センチほど低い庭先で、落ちた白米をバケツに戻していた。

「コメどころでないから、すぐ上がれ!」と叫ぶと、

サチ子さんは「もう少しで終わっから」。

「津波はコメなんか待ってくんねえど!」。


返事はなかった。



間もなく、大友さんを津波が膝丈まで襲った。


「ばんつぁん(ばあさん)!」。


返事はない。


台所に行った。


いない。


寝室。


いない。




さらに捜そうにも、津波は何度も押し寄せる。


自分自身も首先まで浸った。


遺体が見つかったのは1週間ほど後だった。

顔は水でふくれて判別できなかった。


浸水したタンスからはへそくり200万円が見つかった。


「白米拾う必要なかったんでねか」


連れ添って50年以上の同い年。


1カ月遅れて生まれた大友さんは昨年11月の誕生日、初めてサチ子さんより1つ年上になった。



いまは仮設住宅に1人住まい。


車は流され、趣味の釣りに行くこともなくなった。


部屋に座って思い出すのは、昨年行くはずだったハワイへの最初で最後の海外旅行だ。

「へそくり、ハワイで使うつもりだったんだか」。


サチ子さんは仏壇でニッコリほほえむだけだった。







ひまわりの種

 
おはようございます。

元気ですか!!



“  元気のある人が

   元気を出しまくる! ”



今日はイイ話長編を1つ紹介します。




昨年、3.11の震災の時に子ども達が70人以上、亡くなった大川小学校に行ってきたんや。

そこで一人の女性に出会った。

その女性は6年生の娘さんを亡くされた。

そのお母さんが去年の5月ぐらいに一本のメールをくれたんや。

そのメールはひまわりの種を植えました。

っていうメールやった。

悲しみを忘れるかのように、仕事をいっぱいしてたって。

すると、その仕事場にめ組japanのcrewが来た。

「良かったら5月3日に一緒に植えてもらえませんか?」って。

「SEED OF HOPE〜世界中に希望の花を咲かせよう!」

瓦礫だらけの東北に花が咲いたら希望が生まれるかもしれないって始めた企画。

5月3日、世界同時に種を植えましょうって書かれたチラシにひまわりの種をつけた。

お母さんはその種を手に取った時、毎年、子ども達が大川小学校の近くの交差点の三角地帯に子ども達がみんなで花の種を植えていたことを思い出した。

(あそこに植えよう)

「まだ、見つかっていないこども達がこのひまわりが咲く頃にはお父さんとお母さんや家族の元に帰ってきてくれますように。

このひまわりの黄色を目指して、こどもたちが家族がいる場所にもどれますように」

その願いをこめて。

はじめは怖かったって。

今の時期に花を植えることは正しいのか?

本当にそれでいいのか?

他のご遺族の方に理解してもらえるだろうか?

気持ちが葛藤する中、人があまり通らなくなった夕方に、津波でぐちゃぐちゃになった三角地帯の花壇を耕し始めた。

すると、そこに一人二人とやってきて「私も一緒に植えさせて下さい」ってご遺族の方や近所の方や全国から来たボランティアのみんなが手伝ってくれて、ひまわりの種をいっぱい植えてん。

ときおり涙を流されながら「あの時、いっぱい花が咲いたんですよ」って語ってくれた。

もうすぐ1年はたつけれど。

大川小学校の前にある慰霊碑の前には、二人の子どもさんを亡くされたご家族がお線香や温かいお湯をコップにいれてはった。

そして、ぼくらが手を合わせていると、おまんじゅうをくれはった。

津波でぐちゃぐちゃになった学校の中を見せてくれたお母さん。

学校の中にはどこかの団体が飾られたおひな様の台が5台。

その学校を見ながら何度も何度も自分に問いかけた。

どうしたらこの肉体を離れた子ども達は喜ぶんやろう?

ぼくに届いたメッセージは「やさしく生きる」だった。

なぜ、そう思ったのか分からない。

ただ、この学校の前に立ったとき、争いのないやさしい世の中を創りたいってなんだか思った。

この肉体を持っての人生は一度っきり。

優しく優しく生きていこうね。


中年よ大志を抱け

 
おはようございます。

元気ですか!!



どんなことであれ、現象を肯定し、
学び、感謝することは大事なこと。
 
嫌なことだと感じても、・・・
一端、受け入れることから始めるのです。
 
たとえそれが嫌なことであっても、
目の前の現象は自分にとって必要だから存在するのだと思います。
必然、必要、ベストということで(^−^)
 
それが理解できないと、拒絶する心ばかりが大きくなります。
 
大切なことは、それを包み込み、上手に活かす工夫をすることだよ。
 
ワクワク脳の持ち主は、「嫌」と感じることを、
いったん受け止め、そこから学び成長するためにと、工夫する。
 
不平不満脳の持ち主は、「嫌」と感じることを、
拒絶し、見て見ぬふりをしてしまう。


だから、また同じようなコトが起きる。
 
どちらを選択するかは、自分で決めることができる。




では今日もイイ話を2つ紹介しちゃうね!!



【後悔しない人生を送るには】


アルボムッレ・スマナサーラ師の心に響く言葉より…


「ほとんどの人間は、自分は死なないという前提で生きています。

これ自体とんでもない勘違いで、無知なのです」


これは、別に暗い考え方ではありません。

形あるものはいつか壊れ、自分もいつかは死ぬ…現世には一時的にとどまっているだけだと考えれれば、残された時間の少なさを自覚でき、小さなことにつまずいたり、悩んだりすることもなくなるはずです。

しかし、実際は、ほとんどの人が死を身近な問題としてとらえずに生きています。

だから、とるに足らない小さなことを思いわずらうのです。

仕事でも、他者とのつきあいでも、自分が死なないという前提で行動するのは危険です。


自分の命はずっと続くと勘違いしていると、ひとつのことに強く執着し、理性のない行動をとってしまいます。

生命が有限だとわかっていれば、そんな愚かなことをしている暇はないと気づくはずです。


死にたくないと考えるのは、生き物にとって当たり前のことですが、それは、たんなる願望です。

自分は必ず死ぬと思い知ってください。

そうすれば、何ごとにも執着せず、後悔しない人生を送れます。

『こころを清らかにする言葉』イースト・プレス

 

我々は、今日や明日では死なないと思っている。

だからこそ、この一瞬を大事にせず、無駄な時間をすごしても平気だし、今日やらなければならないことを、明日やればいいや、と先延ばしにもする。


しかし、明日もし死ぬと分かったら…

どんなに、たくさんの金銀財宝もただの石ころにしか思えないだろうし、三ツ星シェフのご馳走も喉に通らない。

どんなに、人生の一大事であっても、あるいは、とらわれや執着も、些細(ささい)なことに思えるだろう。

どんなに、嫌いな人間に、何を言われようが、腹も立たないし、かえって愛(いと)おしい気持ちさえわいてくるかもしれない。


中村天風師は、こう言った。

「さしあたる事柄のみをただ思え、過去は及ばず、未来は知られず」


人は、自分の過去を変えることはできない。

同時に、1分先の未来でさえ分かる人はいない。

確かなことは、「この瞬間」、今しかない、ということだ。

それを即今(そっこん)という。


人は生まれたら必ず死ぬ。

だからこそ、「即今」という、この今を、一所懸命生き抜き、楽しみたい。

 

 


ではもう1つ




ある小学校の用務員さんのお話です。


その方は、大きな会社の重役を退職され、小学校の用務員さんになりました。


痩せて小柄な背格好だったそうです。


その用務員さんと二年間、一緒に働いた先生から伺いました。

 
___

 
その方が来てから学校が目に見えてきれいになっていくんです。

 
みるみる変わっていくという感じです。
 

驚きでした。

 
朝学校に行くと、

 
学校にならぶ背の高い木々がさっぱりと剪定されていて、

 
わっ、すっきりした!と驚きました。
 

見ればかなり高いハシゴに登って作業してるんです。
 

次に、家庭科室のいくつもある壊れた扉を、ペンキですべて塗ってなおしていて、
 

それも仕事が丁寧なんです。
 

何故そんなにまで?と聴くと、
 

その方は志が全く違っていました。
 

子どもが大好きで子ども達に喜んでもらいたいという純粋な気持ちでいらしたんです。
 

だからご自分がお掃除した場所を子ども達がよごしても 、
 

「せっかくやったのによごさないで」
 

という気持ちが全くなくニコニコされていて、
 

下校時間にも先生達と一緒に挨拶されたりと、喜んでなさっていました。
 

他になおすところが見当たらないくらい学校中をぴかぴかにして四年後定年の65歳を迎え退職されました。
 
___

 


何のために仕事をするのか?


自分のため?


お金のため?


喜んでもらうため?


地域のため?


いろいろあると思いますが、


志、大切ですね♪

 

「高い志を立てれば人は変わる。


志は青春時代だけのものではない。


中年よ大志を抱け!」


 by 三浦雄一郎(プロスキーヤー、登山家)

 


死を宣告された男

 
おはようございます。

元気ですか!!



今日はブログデーではありませんが、

明日書いている時間がないので、

本日アップします♪






自分自身が自分の力を信じることから全ては始まる。



そうなんですよ(^−^)

自分が自分を信じてあげないでどうするの!


 
私達の脳は、信念に基づいて動きます。

信念にも、「私には才能がある」という肯定的信念と

「私には、才能などない」という否定的信念の二つがあるのです。
 

どちらの信念を選択するかで、自身の未来は決まってしまう。

信念は、どちらにしても「思い込み」ですから、どうせなら・・・

「私には無限の可能性がある」という肯定的な思い込みを選択しよう。
 
その土台で、あなたの脳は、創造性を発揮し始めるようになるのです。








では今日は長編1話を紹介しちゃうね!!







『死を宣告された男が、仕事に見た“夢”

東芝で伝説をつくった西室泰三氏に学ぶ』




西室氏が経済界で頭角を現したのは、

1995年に東芝の専務取締役に就任し、

DVD規格戦争の指揮官として

東芝に大勝利をもたらしたことがきっかけである。


当時、本命と思われていたソニーとフィリップ連合軍のMMCDを相手に、

西室氏は東芝を大逆転勝利に導いた。


その後先輩8人を飛び越えて社長に就任し、

東芝の歴史に残る数々の変革を成し遂げ、

実績のみならず、記憶に残る社長の1人となった。




そんな西室氏が若い頃、

難病に襲われ死の危機に面した経験を持っていることは、

あまり知られていない。


1961年に当時の東京芝浦電気に就職して半年ほどたった頃、

西室氏は原因不明の難病に襲われた。


ある日足が思い通りに動かなくなり、

特に疲れると筋肉が死んでいくという感じがしたそうだ。


病院にいったところ、医師に「もってもあと5年」と、

余命を宣告されたのだった。


西室氏は、原因不明の筋肉が衰えていく病に侵されていた。

医師からは、「足から始まっている筋肉の衰えが、

しだいに身体の上部に移っていき、

最後に心臓までいったら終わりです」と言われたそうだ。


死を宣告された時のことを氏は、

「わけが分からなかった。

終わりって言われてもピンとこないし、

ちっとも現実味がないから、

ショックを受けるということもない。

ただただ、わけが分からなかった」と、語っている。




まさか20代の若さで自分が死ぬなど、想像できるわけがない。


「そんなわけはない」と強く否定した西室氏は、

あちらこちらの病院をめぐり、

半年以上かけていろいろな先生の診断を仰いだそうだ。




ところが、どこも結果は同じ。

どの先生にも一様に、

「原因不明。余命5年」

と言われたのだった。


だが、どんなに否定しても、日に日に足は動かなくなった。

確実に弱まっていく筋肉を目のあたりにし、

悪夢が現実味を帯びてきた。


その途端、極度の恐怖を感じ、

とにかく頭からその恐怖を遠ざけようと、

がむしゃらに働いた。


 
頭の中を仕事で埋め尽くせば、

恐怖を忘れることができる。


そこで、西室氏はできるだけ会社で残業をし、

仕事をひたすらやり続けたそうだ。

それでも埋まらない時間は、たばこと酒で紛らわした。


1日でワンカートンものたばこを喫っていたというのだから、

その恐怖の重みが伝わってくる。


医師からは「筋肉の病気で死ぬ前に、肺がんで死ぬ」

と警告されるほど、たばこで時間を埋めたそうだ。




ところが、である。
 
なんと西室氏は、恐怖ととなり合わせの状況で、

「自分のモニュメントを東芝に作ろう」という目標を掲げたのだ。
 

 
死んだ後に忘れられてしまうような生き方をしては、意味がない。

自分の死後も周りの人たちが自然と自分のことを思い出してくれるように、

東芝に自分のモニュメントを作れるような人間になろうと、

将来をイメージした。




「生きている価値があるということは、

自分がいなくなった後でも、

『あの人がここにいてくれればな』と思ってくれることじゃないか、

だから残された時間で、

そういうふうに自分のことを思い出してくれる人を、

どのくらい増やすことができるだろうと考えましたね」と西室氏は語った。
 
 

「何回も何回も自分で考えるうちにね、

それだけの時間があれば、

多分みんなが覚えてくれるだけの仕事はやれるよね、

と思えるようになった。

“5年も”あれば、何か自分でできる、と思ったんです。

そう、“5年も”あるってね」


目標を持つことで働き方が変わった




その瞬間から、

それまで「恐怖から逃れるため」だった

“がむしゃらで無謀”な働きぶりが、

「目標」を達成するための“努力”に変わった。


死という人間にとって最大、

かつ最強のストレスに遭遇し、

将来を失ったかにみえた西室氏が、

将来に向かって歩き始めたのである。

 
なぜ、西室氏はそんな過酷な状況で

「自分のモニュメントを作る」という目標を掲げることができたのか? 

 
そこには2つの要因があった。

 
1つ目は、母親の存在だ。
 

当時西室氏は、会社には病気であることを隠し、

上司や同僚には

「昔、スキーをやっていて痛めた足の具合が悪い」

と告げていたそうだ。


病気だと知れれば、どんな処遇が下されるかわからない。

そこで、身体がどんなにしんどくとも、隠し続けた。

 
そんな西室氏が、唯一気を許せたのが母親だった。

母は“お茶断ち”をし、お百度参りをし、

ひたすら西室氏の回復を祈ったそうだ。


そんな母親を見て、

「残された時間を価値ある生き方にしないと、

母親に申し訳ない」と思ったという。

 
「価値ある生き方とは、どんな生き方か?」
 

何度も何度も自問し、答えを出した。
 

「自分がいなくなった後でも、

『あの人がここにいてくれればな』

と思ってくれるような生き方だ」と、考えたのだ。

 
そして、2つ目の要因が、

「自分にできる目の前のことに、

ひたすら取り組んだこと」だ。

 
氏は恐怖を頭の外に追い出すために、

ほとんどの時間を仕事に費やした。

ただ費やすだけでなく、

「自分のできることはないか?」とプラスαを探し、

自分の仕事に加え続けた。

 
商品を売るには商品のことをとことん知ろうと、

毎週末工場に通い、工場員の作業を見学し、

技術者に商品について教えてもらった。


当然ながら、余命を告げられていた西室氏に、

この時将来の夢などなかった。


「夢をかなえるために、何かを達成するため」

に仕事をしたのではなく、

恐怖から逃れるためだけに、

ただひたすら仕事に全精神を傾けたのである。

 
ところが、最初は恐怖から逃れるために没頭した仕事が、

やればやるほど楽しくなった。


自分の知らないことを技術者から教えてもらい、

自分の職場以外の人と関わるうちに、

仕事が面白くなったのだ。


 
自分にできることが、他にはないか?
 
自分の知らないことは、他にはないか? 
 
こうして、自分に与えられた仕事にどんどんプラスαを加えていった。

 
心を“無”にし、ひたすら目の前の仕事に全精神を傾けたら、

仕事が面白くなっていた。


その結果、「自分のモニュメントを東芝に作ろう」

という目標が生まれたのだ。

 
念のため繰り返すが、これは氏が入社して間もないころの話だ。

つまり、新人。

まだ半人前で、簡単な仕事しか任されていないのに、

その簡単な仕事に自分で付加価値をつけていったのである。

 

「夢や目標を掲げれば、仕事に前向きに取り組める」と、

誰もが思う。


だが、逆もまた真なり。

「目の前の仕事にただひたすら取り組めば、

夢や目標が見えてくる」こともある。

 
夢が必要だからと無理やり夢を掲げたり、

目標が必要だからと無理やり「目標」を立てるのではなく、

体感する中で自然とわいてきた夢や目的には、“命”が宿る。


体験する中で抱いた夢や目標は、より現実味が出てくる。


頭だけで考えた夢は妄想で終わりやすいが、

体感する中で抱いた夢は、叶えられる夢となる。

 
頭で考えるのではなく、動いて、感じることが必要なのだ。

 
「何をしたらいいのか分からない」とぼやく部下に、

「それ、夢を持て! それ目標を掲げろ!」と言うのではなく、

「目の前の仕事をひたすらやってみろ!」と、

助言してもいいのではないか。

 
自分に与えられた仕事を100%こなすだけでなく、

101%、102%と、もっともっと無心に目の前のことだけを繰り返すと、

不思議と「自分のやりたいこと」が見えてくる。

 
夢や目標がないから、

「何をやったらいいのか分からない」のではない。

何もやっていないから「夢や目標が分からない」のだ。


モヤモヤしてシャキっとしない時には、

何も考えずに目の前のことを“無心”にやるといい。

 
何かのためとか、何か達成するためではなく、

ただ自分にできることを100%、101%やり続けるといい。

 
そうすれば、これまでとは違う風景が見えることだろう。

 
そして、余命5年と宣告された西室氏が今なおお元気なのは、

仕事の成果が認められて3年後に米国駐在になり、

そこで最新の医療に出会い、一命をとりとめたからである。


「自分のモニュメントを作ろう」と必死に働いたことで、

命まで取り戻すことができたのだ。

 
これから先、自分の未来に何があるかは、

無心に取り組んだ人にしか分からない、のである。


〜〜〜

出典

日経ビジネスON LINE
河合薫の新・リーダー術
上司と部下の力学より


 

calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< March 2012 >>
sponsored links
selected entries
archives
recent comment
recommend
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM