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  • 2013.03.24 Sunday
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一定期間更新がないため広告を表示しています


人のため世のため

 
おはようございます。

元気ですか!!

いつもありがとう♪


今日は日曜だけど、明日はブログ書いている時間がないので
1日早くアップしました!!

では今日もすごい人2人紹介しちゃうね!


『ホスト業界初のボランティア団体を発足したスゴい人!』

夜鳥の界、そしてラフレター。
 
これらは、あるカリスマホストが立ち上げた活動。
 
歌舞伎町で定期的にホストが集まって、ゴミ拾いの清掃活動。
 
さらには、水商売の若者たちから言えなかった
“ありがとう”を代弁し、大事な人に届ける活動、
“ラフレター”は書籍化もされた。
印税などの収益は、すべて社会貢献活動に寄付。
 
様々な世界に、アツく他人を思いやる優しい日本人は存在する。

さあ・・・
手塚真輝様の登場です!


「きっと誰もが敗者復活戦」

 小、中学校、オール5で優等生でしたが
人見知りでした。

高校は埼玉県内の進学校に進み、ラグビーばかりしていました。

医者を目指して受けた医学部に落ちて
東京で浪人しながら出会ったバイトが水商売でした。

今まで優等生でいた自分とは、真逆なことを望んでいたのかもしれません。
たまたまホストをしたら、1週間1ヶ月、と過ぎる中、
生半可に出来る仕事ではないと気づき、
大学を辞め、4年間はこれだけをしようとホストに集中しました。

ホストを始めて勢いだけで7年後に独立。
その時からの仲間が一人また一人と店を去っていき、
店の存続も危うくなった時に一人のホストから
「自分は他に行くところもありません。ここにおいてください。」と言われました。

彼らだけでなく、自分も居場所なんてなくて、自分も彼らが一緒に居てくれることに気づいて、
そのときから真剣に仲間を思うようになって、お店を継続させることが出来ています。
 
2004年中越地震の時に、目立ってやろうという気持ちだけで
仲間と400万円集めて被災地に行きました。

田中真紀子さんに会える。
マスコミが来るなどといわれて行きましたが、
結局、市の担当者にお金を渡しました。

でも、僕らを待っていたのは、本当の「ありがとう」。
避難生活中のおばあちゃんや子供たちからの、心のこもった言葉でした。

とても気持ちがよかった。

この気持ちを仲間と分かち合いたい。
自分たちでできることをしようと思い、
みんなを呼びかけてお世話になっている歌舞伎町のごみ拾いを始めました。

これからは、ホストクラブのビジネスモデルとなるような経営方法を
仲間と一緒に構築していき、
社会貢献になる活動も仲間と一緒に、自分たちの為にも続けていきたいと思っています。





ではもうお1人

『日本最長の保護司の活動を称えられ瑞宝双光章叙勲した女性』


大学時代は、カーレースに没頭。
最少消費燃料で決められたコースを走れるかという究極のエコレース、
第4回ヒルマンエコランで見事に全国優勝!

スキー選手時代は年間70日以上も練習に費やすという活発な女性。

彼女が人生を掛けて続ける“保護司”という役割。

保護司としての長年の貢献が称えられ、瑞宝双光章叙勲も受賞。

保護観察対象者を更生させるまでの道のりとは?

さあ・・・
新宿区更生保護女性会 会長
坂本悠紀子様の登場です!


「いつも元気でいてね」

人生で人のために何かをしたいと強く思ったきっかけは、
中学生と高校生の時にヘレンケラーさんにお会いしたことでした。

目が見えず、口が利けず、耳が聞こえない
という三重苦。

歓迎のためにゆりの花を準備して、お迎えしました。
私は心の中で「どうせわかっていないだろうな」
と決め付けていました。

3年後再び来日された折
又ゆりの花を準備しましたところ

「今日もまたゆりの花の香りがしますね」

ちゃんと伝わり
覚えて下さっていたのです。

まさか伝わるとは思わず、
本当に、
本当に、
驚きましたし、
思い込みは良くない、人の話はしっかりと聞かなくてはいけない
と猛省しました。

大学時代は、YMCAで小児麻痺の子供を泳げるように手助けする
ボランティア活動に参加しました。

カーレース、スキー、ライフル射撃に取り組み、

結婚後は夫の後を引き継ぎ
保護司の仕事について34年になります。

思い返せば、人生の約半分は、保護司の仕事をしています。

今までに144人の保護観察中の方と接してきました。

月に3回は、会ってお話をしなくてはいけないのですが、
プツっと連絡が取れなくなったり、
嘘をつかれたりすることが、
多々ありました。

そんな時は郵便受けに、
「今日も来ました」という
短い手紙だけを残して、帰りました。

そうすると、気持ちが通じて会えることもあります。

どんな場合も、人間は問い詰めて、追い詰めてはいけないと
勉強になりました。
逃げ道は1つは残しておかないといけないんですね。

保護観察中の人にはいつも、
「元気でいてね」と声をかけています。
元気でさえいれば、人生何とでもなるんです。

私が見てきた人の中でも、
立派に更生をされて、学校の先生や、会社の社長に
なった方もいらっしゃいます。

いつからでも、再起は可能なのです。

お体を大切に
元気でいてください。



10万人のゴミ拾い活動を実行してしまったスゴい人

 
おはようございます。

元気ですか!!

いつもありがとう♪


今日は妙にあったかいね。

明日は寒くなるんだって!

みんな体調に気をつけてね。


では今日もすごい人2人紹介しちゃうね。



『日本中に勇気と元気を与えた続ける“五体不満足”のスゴい人!』

この世に生を受けて、みんなそれぞれ独自の存在。

先進国では、障がい者がアクティブな生活を送る中、

彼が登場するまでは、日本においての障がい者の行動範囲は制約されたものだった。

彗星のごとくあわられ、障がい者や健常者に光と力と勇気を与えてくれた。

彼のポリシーは、

「不便だけど、不幸ではない!」

常にポジティブに人生を謳歌する
ベストセラー“五体不満足”の著書が
登場だ!

さあ・・・
乙武洋匡様の登場です!


「みんなちがってみんないい」

僕は、基本的に楽天家なのか、身の回りに起こるすべてのことは、
自分にとって最終的にはプラスになるんだと思っています。

一見マイナスに見えることでも、
例えば、みなさんから見て僕のように手足がないことは
とてもマイナスに思えるかもしれませんが、
この体だったからこそ経験できたことや気づけたこともありました。
ひょっとしたら、みなさんよりラッキーだったのかもしれません。

当然、毎日生活していると、いやなこともあると思いますが、
自分を強くしてくれている、経験を与えてくれているんだと、
長い目で乗り越えようとすることにわくわくするんですね。

高校生の時に父が癌であることを知った時はショックでしたし、悲しかったです。

ただ、人間に生死があることは事実。
その死から何を学びとるかが大事なこと。
僕にとっては、そこから7年間、父との別れまでの時間も有意義なものでした。

常にチャレンジすることも必要だと思います。
僕もスキューバダイビング、車の免許、小学校教師と次々とチャレンジをしてきました。

また、この体で二児の父となったことも、
ある意味チャレンジと言えるのかもしれません。

小学校の教師になった理由は、ご恩返しでもあります。

こうした障害があると、どうしても卑屈な生き方になってしまう場合がありますが、
僕の場合、両親の育て方やお世話になった先生方のご指導により、今の自分がある。

そうした感謝の思いから、社会への恩返しをしたいと思い、教育への道を志しました。
今後も何らかの形で教育現場に携わり、子供たちと向き合っていけたらと思っています。

僕がいちばん大切にしている言葉に、ユニークという言葉があります。
日本語では、「奇抜」とか「おもしろい」という意味合いで使われていますが、
英語本来の意味は、「唯一の」とか「独自な」というもの。

せっかくこの世に生を享けたからには、自分にしかできないことをしていきたい。

みなさんにも、自分にしかできないことは何かを考えてみていただければ。
やりたいことにたどり着くまで、がむしゃらにトライ&エラーでチャレンジを。
たどり着けたなら、自分自身が楽しみながら突き進むのみです!





ではもうお一方


『世界中で10万人のゴミ拾い活動を実行してしまったスゴい人!』

“100万人のゴミ拾い”

という、活動を知ってますか?

この活動は、今や世界中に広がり
なんと、去年2010年には
参加者が10万人を超えた!

この世界的なイベントにまでなった活動は、
たった一人の大学生から生まれた。

有名大学に入学するもなにをしていいのかわからない・・・

夢って聞かれて、答えられる夢もない・・・

ならば、ゴミを拾おう!

たった一本の映画を見た、
たった一人が起こした活動。

世界を変えよう!

さあ・・・
荒川裕二様の登場です!


「ゴミ拾いが僕の人生を変えてしまった!」

事業をやっている両親のもと
何一つ苦労せず、大学に進学した。

急に、自分自身が空虚に感じてしまった。

何がしたいの?
何ができるの?

そんな理由もない
苦しんでいる僕を見て、友人がある自作映画に誘ってくれた。

てんつくマンという人が作った
“107+1〜天国はつくるもの”

衝撃だった。
まさに、僕の背中に電流が走った。

映画の中では、一生懸命、ゴミを拾い
そこから人生の生きがいを見つけている人が映っていた。

これだ!

思い立ったら即行動。

日本一、汚い場所を探した。
新宿歌舞伎町。

翌日からゴミ拾いを始めた

2006年11月8日、
初日は、ゴミ袋10袋。

翌日も続けた。

非難中傷もあった。
ツバを吐きかけるホストたち、喧嘩に巻き込まれ、殴られた。

そして、ついに巨体な男に投げられ病院行き。
さすがに翌日、辞めようと思った。

そして、「今日で最後にしよう」といつもの場所にいくと
ひとりのホームレスのおじさん。

「手伝ってもいいかな。」

涙が止まらなかった。

ひとり、ひとり・・
手伝ってくれる人たちが増えた。

僕らは、
5月3日をゴミの日とした。

2007年ゴミの日、444名
2008年ゴミの日、1500名

2009年ゴミの日、15000名
そして、
2010年には10万人を突破した。

世界各地で、
ゴミ拾いにこんなにも多くの方々が参加してくれた。

僕は、僕自身の人生を変えようとゴミ拾いをやった。
そして、僕も人生を変えたけど、
周りも変わった。

今や、僕は全国の学校などを飛び回り
講演活動の傍ら、
今でも、毎日、ゴミ拾いは続けてます。


トライアスロン

 
おはようございます。

気ですか!!

いつもありがとう♪


花粉がちょっとだけ目にしみる今日この頃(汗)

今日もすごい人をお二方紹介しちゃうね!!



『日本初!世界に認められるトライアスロンバイク専門ブランドを創りあげた男』

トライアスロン経験者で知らない人はいないであろう。

“CEEPO”

そう、
日本が誇る
世界的に認められた
トライアスロン専門の
日本の自転車メーカー。

ある男の決意が、
この会社を生んだ。

好きが高じて
ビジネスになった。

好きだからこそ
情熱を傾け続けられた。

どんどん
増えていくCEEPOライダー。 

さあ・・・
株式会社CEEPO International
代表取締役
田中信行様の登場です!

「自分が理想とするものを追求し続ける」

高校2年の時
水泳部の友達と
泳ぎに行ったら
僕の方が早かったんです

高校2年3月から水泳を始め
6月には京都で3位

それをきっかけに
僕を悩ませていた
いじめがなくなりました

大学時代
関西では連勝
全日本でも3位

卒業後
輸入商社の営業マンとして
就職した会社が
30歳の時に倒産

会社更生法で
ラコステ部門が投入され
課長をやらせてもらい
5年で150億を売り上げる程順調に進み
子会社の社長時代
リーボックからヘッドハンティングを受け転職をしました
そしてその頃、結婚
気がついたら体重が90kg以上になっていました

ダイエット目的で水泳を再開

マスターズ水泳協会に誘われ
ゴールしたら
1500mの日本記録

その後
3種目で日本記録を樹立

そんな僕を見ていた友達から
トライアスロンに誘われ
38歳でデビュー

水泳部門は1位
補給をとる事さえ知らない素人で
エネルギー切れをしましたが
総合8位

フロリダで5位となり
憧れのハワイ出場の権利を獲得

昔から
トライアスロン専用バイクが
欲しかったんです

大手は
マーケットが小さいから作らない

リーボックを退社し
無職の時

美味しい食事があるからおいでと誘われ
友達のパーティへ

そこで
自転車の素材として使われる
カーボンメーカの台湾人社長と出会い
想いを伝えたら
自転車作りに協力してくれました

2003年11月
東京自転車ショーでデビュー

ショーが終わり
ライトエースに自転車2台を積み込み
青森から鹿児島まで車で営業

86件回って40件注文をとったんです

良いと思って作っていたけど
今振り返ると
よく買ってくれたな、
と思います。

この40件の人達への恩義は一生忘れません

2004年の宮古島では8台
2010年は212台が走りました

辛い事は沢山ありますが

どんな問題も思い入れと一生懸命さが
あれば仲間や時が必ず解決してくれます

トライアスロンの聖地、ハワイで1番乗られる自転車(世界一)を目指します!




ではもうお一方

『日本人で唯一インディカーレースの表彰台に立った男』


やりたいことを
やることが
どれほどまでに
難しいことか。

しかも、
代々続く家業を
継ぐ立場において
今日の男は、
夢を選択した。

レーサーになりたい!

強く思い描き
ひたむきに努力を重ね続けた。

ついに
日本人初、
表彰台へ。

さあ・・・
武藤英紀様の登場です!

「ラストチャンスに燃え上がる」

幼少の頃に
テレビでレースを
見たことがきっかけで
レーサーになりたいと思いました。

15歳の時に
レーサーになるべく、
イギリスに渡りました。
帰ってきたのが19歳の時。
周りは高校を卒業して、
大学に進学することや、
就職が決まったという
話をしていました。

そんな中、
帰国した自分は、
中学を卒業しただけで、
レースでの実績が無く、
具体的な進路や
所属チームも決まっていない状態。

家業である
築地魚河岸の六代目となるか、
レーサーを
続けるかで迷いました。

ただ単純に生活できる
ということには、
興味が無く、
死ぬ間際に
達成感があるかどうかで判断しました。

自分にとっては
絶対的な達成感を感じられるのは
家業を継ぐのでは無く、レーサーになること。
「絶対にレーサーになるんだ」
と堅く決意をしました。

その後
ギリギリで
何とかホンダの
フォーミュラードリームの
試験に合格しました。

当時は
自分が誰よりも速いと
思っていて、
人からのアドバイスは
全く聞きませんでした。

今思い返すと、
素直に人の
アドバイスを聞いていれば、
もっと短期間で
上達していたと思います。

インディカーのレースでは
熾烈な争いが繰り広げられています。
順位争いはもちろんですが、
ドライバーとして
毎年の契約更新が
できるかなど・・・

ある時
全く成績が残せない
時期がありました。

サーキットに行くのが
全然楽しくない。
正直、
引退かなと思いました。
サーキットへの
通い慣れたこの景色を見るのも
今年で最後かなと思うと、
メラメラと闘志が湧いてきました。

その燃え上がる闘志に
思いを乗せて走りました。
すると
想像以上の結果を
残すことができたのです。
人間『これが、ラストチャンス』だと思うと
頑張れるんですね。

来年は
インディカーレースで、
日本人初の1位を取り、
将来はF1にも挑戦をしたいと
考えています。
みなさん応援宜しくお願いします。

 


ついてない男

 
おはようございます。

元気ですか!!

いつもありがとう♪


ブログが1日遅れてすみません(汗)

昨日書いたんだけど、送信ミスでアップできませんでした。

今日再度アップしたので読んでください。



【龍馬、それはツイてない男】

龍馬の母は、龍馬が12歳のときに亡くなっています。

12歳、またまだお母さんと一緒にいたいときです。

龍馬は、寂しかったことでしょう。


そのころ、龍馬は塾に入りますが、もの覚えがあまりに悪く、さらに泣き虫で、いじめられて騒ぎになったこともあり、塾の先生から「とてもあずかれない」と退塾させられてしまいます。


勝海舟に弟子入りして神戸海軍塾塾頭を任された龍馬。

しかし、池田屋事件に塾生が加わっていることが知られ、幕府によって閉鎖させられてしまいます。

せっかく日本に海軍をつくろうと思っていたのに…。

『龍馬、なんてツイてないんだ。』


カンパニーをつくったものの、自分たちの船になかなか恵まれなかった龍馬。

ようやく大洲藩から貸与された、いろは丸で航海していたら、紀州藩の船と衝突。いろは丸は沈没してしまいます。

『龍馬、なんてツイてないんだ。』


でも、龍馬の人生は教えてくれた。

幸せだけが幸せじゃないって。

ツイてようが、ツイてまいが、やるべきことをやるだけなんだって。

『そもそも生きるって
たいへんなことなんだ。
苦しいことだって、いっぱいあるんだ。』

でもだからこそ、生きるんだ。
だからこそ、真っ向勝負するんだ。


龍馬よ。
サムライが黒船に乗って世界中の海をめぐり、
商売するなんて、よくぞそんな痛快な発想ができたよね。


龍馬よ。
日本初の会社をつくったにもかかわらず給料は龍馬もヒラ社員も同じ、
一律3両2分(現在の15万円ほど)。
あんたはどこまで無私の人なんですか。


龍馬よ。
殺し合いをしていた薩摩と長州を、見事なまでに握手させたよね。
そして自らの仇敵だった土佐藩の後藤象二郎を、よくぞ許せたものだよね。


龍馬よ。
尊王攘夷の浪士たちをムダ死にさせないために、北海道に移住させるプロジェクトって、どっからそんな発想が生まれたんだい?


龍馬よ。
260年以上続いた江戸幕府に、よくぞ、無血で政権を放棄させたよね。
あれは世界の奇跡だよ。


龍馬よ。
なんで一介の浪人であなたが、あの当時、上院、下院による議会制度まで献策できたんだい?


『竜馬がゆく』のあとがきのなかで司馬遼太郎は、「日本史が坂本竜馬をもったことは、それ自体が奇跡であった」と述べています。


自らのしあわせをほっといて、
誰かのしあわせのために挑んでいく人生があるんだってことを教えてくれたのは……、

あなた、坂本龍馬です。

ありがとう、坂本龍馬。

======

熱くなりました。


誰かのしあわせのために挑んでいく人生。


龍馬さん
ありがとうございます。





では今日もすごい人紹介しちゃうね!!


『財務会計の視点から社員の幸せと企業利益の両立を実現させるスゴい人!』

笑顔の無い職場、毎日日付が変わってからの帰宅。
 
奪い合いの競争社会で、心身ともに限界直前の時に出会った“ヨガ”。
 
ヨガとの出会いが、ビジネスへの考え方を変えた・・・!
 
その後ビジネス書のヒット作を次々と創刊。
“会計のことが面白いほどわかる本”
“君を幸せにする会社”
“宇宙とつながる働き方”
 
働くことの本当の意味とは・・・?
仕事を通じて得られる本当の幸せとは・・・?

さあ・・・公認会計士
天野敦之様の登場です!


「自分と相手の幸せの追求」

高校卒業して大学進学を考えた時、経済が変わらないと世の中が変わらない、
社会を良くするのは会社だと思い

一橋大学 商学部に入学しました。

天才的な友人に出会い、衝撃を受け、
私が普通にビジネスを勉強しても太刀打ちできないと思い、
専門知識を身につけることにし
学生時代に公認会計士の資格を取りました。

コンサンルティング・ファームへの就職の後
大手証券会社に転職し、M&Aや証券化の仕事に携わりました。

家に帰るのは毎日午前2時、3時。

肉体的にも精神的にもギリギリな状態の頃、
ヨガ教室に参加してみたら、心身ともに癒され、すごく気持ちが良かったのです。

体がほぐれ、頭と心もほぐれ、幸せは外に求めるのではなく
自分の内側にある事に気づきました。

残業を抜け出しヨガをして、また会社に戻る。

会社には
お金もある
モノもある
だけど死にそうな顔で働き、誰も笑っていない。

この現実に気が付き、驚きました。

純粋にお客様が喜ぶ事を続けたら

「人を幸せにしたいならNPOに行け!
我々は金融のプロなんだから
金融の事だけやっていればいいんだ!」

と上司に一喝されました。

その後上司との対立が原因で部署を異動させられ、
それがきっかけで自分の時間を作れるようになりました。

空いた時間で、財務会計やヨガの智慧を生かして
誰かの笑顔のために活動を始めましたが、
もちろん副業は禁止、チャリティーセミナーも禁止、
起業した友人の財務の相談にのることも公にはできない。

私は長年勤めた証券会社を辞め、コンサルティング・ファームに戻りました。
その後、様々なご縁で出版や会社以外の仕事が増え、独立に到りました。

今振り返ってみると、多くの挫折や失敗もありましたが、
それらがあったからこそ今があります。
全てが必要なメッセージだったのだと思っています。

未来を不安に思っても仕方が無い。
ただ真摯に愛と光を顕して生きていれば、宇宙が導いてくれるのだと思っています。

自分の事だけではなく、
周りの人に如何に喜んでもらうかが大切。

自分を犠牲にせず
自分が幸せで周りも幸せになる道を歩みはじめれば
自然と大きな力が味方してくれます。

おいおい(汗)

 
おはようございます。

いつもありがとう!!.


今日は意外な話をメルマガで発見したんで、紹介します。

真実についてはどうなんだろうねぇ(汗)


○○ンビールはなぜ飲まない方がいいのか?

それは、遺伝子組み換えやからやった。

後、発泡酒も飲まない方がいいよ〜って言うてはったな〜。

精子に影響があるんやって。

後は、一年たっても腐らないヤ○○キパンの「ラン○○ック」の話もしてはったな〜。

そしたら、会場に「さっき買ったところです」って「ラン○○ック」を持っている人がいて爆笑!

後ね、IHの話はパナ○ニックに電話してIHは危険じゃないですか?って聞いたら、最後に言われたのが「30センチ離れて料理すれば大丈夫ですから!」って言われたんやって。

ただ、30センチ離れても16ミリガウスぐらいの影響はあるからお薦めは出来ないよね〜って。

後はね、コンビニ弁当の話もあったわ。

西日本新聞にも載ったらしんやけど、豚にコンビに弁当の余ったのを食べさせていたら、2000頭が奇形と死産やってんて。

後ね、電気自動車を乗ってる時は携帯を辞めた方がいいって。

時にブレーキが利かないことがあるんやって。

電磁波が凄いって。



後、出来るだけ肉は食べない方がいいよ〜って。

うんちが黒っぽかったら、食を変えましょうの合図。

大きな便りで大便。

なので、出来るだけ黄色のうんちを目指すのがいいねんて。

後、気をつけた方がいいのが、疲れた時の甘いものの食べすぎね。

白糖は疲れた時に食べると血糖値をあげて、一瞬疲れがとれたと錯覚する。

でも、その後に急に下がるのでこれを繰り返していると、低血糖症になるんやって。

低血糖賞になるとシュガーブルースって言って、意味なく落ち込んだり、意味なく切れたり、後、冷え性の原因にもなってる。

後、面白かったのが牛乳の話で。

牛乳は牛の赤ちゃんの飲み物ですよ。

私はいろんなことを伝えてますが、それでもまだ牛乳を飲む人に聞くんです。

「あなたは牛を目指しているんですか?」と。

そこで爆笑をとってはりました。

もう牛乳が体には負担であることはもう何回も言う必要はないと思います。

さて、もっと食を勉強したいあなたにはこの本なんかどうでしょう?

フードコーディネーターの南 清貴さんの「じつは体に悪い19の食習慣」  ワニブックスPLUS


・朝は白湯。食べるとしたら果物

・甘いものが食べたくなるのはビタミンC不足。砂糖ではなくて果物を!

・日本人は牛乳からカルシウムを摂取できない。不健康な牛の乳が完全栄養食品!?
 
・生野菜も食べよう。酵素が減ると老化現象が進む

・肉が元気を奪う!スタミナをつけたいなら豆を食べよう

・高血圧の原因は、塩化ナトリウムであって「塩」にあらず

・マーガリンに潜む、これだけの「悪」。トランス脂肪酸

・もっとこわい白い砂糖。料理に砂糖は必要なし

・カット野菜は薬品漬け

・ペットボトルの水は発がん性物質

・体と脳にダメージをおよぼす清涼飲料水

・コンビニ弁当は真っ黒な油で作る工業製品

・サプリが消化機能を低下させる

・食後に果物を食べるのは絶対にさけよう

・電子レンジが体に及ぼす悪影響



おいらがお薦めなのはちょっとだけ食を変えること。

一気にやろうとするとしんどいからね、ほんのちょっと体に負担をかけているのを違うものに変える。

それだけで、体は凄い楽になると思うねん。

体が楽になると脳が回転しはじめるからね〜。

ほんのちょっとなにかをやってみてね〜。





おい

おい

まいったね(汗)

気にするのやめたほうがいいかもね!!




では今日もすごい人紹介しちゃうね。



『日本最大級の有機野菜宅配サービスを立ち上げた男』

“こういう食品流通の仕事は、すごく大変なので
絶対やめたほうがいいですよ。”

”ま、僕らもライバルは作りたくありませんからね。(笑)”

こう、笑ってジョークを飛ばす男こそ、
日本で最大級とも言える”オイシックス”を立ち上げた男。

僕らが普通に使っているサービスは、
すべて、誰かの努力と情熱の上に成り立っている。

この男の想いとは?

今や、飛ぶ鳥を落とす勢いのオイシックスの社長とは?

さあ・・・
高島宏平様の登場です!

「体によくていいものを簡単に手に入る社会にしたい」

そんな思いで、起業しましたが、創業当時は、自転車操業でしたね。

大変なことは多々ありました。

創業2年目にそれまで委託していた配送センターが営業不振で業務停止!

やっとお客様が増えて注文が増えてきたときに今週配送できなくなれば、
当然信用はなくなりますし、お客様が離れてしまう。
どうにかしなくてはなりませんでした。

もともと資金調達は、1、2ヶ月分しかありませんでしたから、
配送を止めればもう会社としてやっていけなくなります。

その問題が発覚した時にどうしたかといいますと、よくやる手法ですが、
まず大量のお菓子を買ってきて、みんなでお菓子を食べながら、ミーティングをしました。

会社存亡の危機にかかわっているのは、直感的に誰の目にもあきらかだったので、
歯を食いしばって頑張ろうが、楽しく頑張ろうが、
乗り越えないと沈没するというは明確な状況だったんですね。

だったら、つらいつらいっていうよりは、
他の人が体験できないこの経験を楽しむしかないよね
といってテーマ曲も決めました。
当時、缶コーヒーのCMで流れていた 
スティビー・ワンダーの“TO FEEL THE FIRE”でした。

当時は、昼間は普通の業務をして、夜は配送センターできゅうりとかを袋に詰めていました(笑)
夜中に疲れ果てるとみんなでこのテーマ曲の「ファイアー!!」と椅子の上で叫んだりしていました。
その状況を打破するために、毎日配送センターで1ヶ月以上も家に帰れない社員の家族から
捜索願いが出たこともありました。

このトラブルを乗り切ったことで、会社はひとつ強くなったと思います。
「俺たちが徹夜で頑張れば、どんなトラブルも乗り越えられる」と。
仲間には感謝しています。


突っ走る女性

 
おはようございます。

元気ですか!!

いつもありがとう♪


雪・・・だね!

寒くても雪でも頑張ってくれているみんなに

ホント☆感謝☆



では今日もすごい人紹介しちゃうね!!


『重度のカナヅチからイルカとの出会いでフリーダイビング世界一になった女性』

地下鉄サリン事件、卵巣腫瘍、
二度の命に関わる経験が彼女を勇気溢れる前向きな女性に変えた。

そして彼女はフリーダイビングに出会った。

海の底、深く深くで感じる自然との調和。

命の根源に向い、ひとつの生命体に戻っていく。

自分と水の境目がなくなって、そこから再び水の上を目指す。

自分の極限に挑む今、生きる喜びの中・・・
彼女は世界一になった。


さあ・・・
AIDAフリーダイビング世界選手権2010沖縄
金メダリスト
平井美鈴様の登場です!

「生きる喜び」

神秘的な小笠原を、深夜番組で見て
人生に一度は行ってみたいと思い、主人と旅行。

島の女の子が野生のイルカと泳いでる姿を見て
心の中で何かがはじけました。

私はカナヅチだけど野生のイルカと泳ぎたい。

それから毎年小笠原に通い、旅先で知り合った女性との沖縄旅行の帰りに
飛行機トラブル。

1時間動かない

隣の男性とお互い何をしに沖縄へ来たか・・・
なんて、何気ない会話がスタート。

彼はフリーダイビングの日本代表選手で練習に来ていました。

「イルカと泳ぎたいので深くもぐれるアドバイスを下さい」
と聞いてみたら

フリーダイビングが一番の近道だと・・

羽田まで熱烈なフリーダイビングの話

羽田に到着したらフリーダイビングサークルへ電話してくれる程。

この時はその行動力に圧倒されるだけで
やろうとは思いませんでした。

後日フリーダイビングの写真やDVDが送られてきたり
大会に呼んで頂いたり。

ウエットスーツを着た人間が海中に溶け込んで行く姿を見ていると
1つの海洋哺乳類に見えて、何て美しいんだと思いました。

とてつもなく重度のカナヅチで、5mも怖いと思った私が
いつの間にか18m潜ってる。

泳げなかった自分の体。
一体何処まで潜れるのかという好奇心が沸いてきた。

フリーダイビングは潜れば潜る程
人がいる所、空気がある所からわざわざ遠ざかり
本当に危ない所に1人、身を1つで潜って行くもの。

それは神秘的で達成感もある素敵な体験。

帰りは酸素が殆ど無く苦しい中
皆がいる所まで安全に生きて帰らないといけない。

お迎えのダイバーが現れ、水面に出て呼吸を2、3回。

この時生きているんだという事を深く感じる。

こんなに生きている事が有難いと思えるスポーツは無いでしょう。

生き急いでるよね
と言う人も結構います。

確かにと思いながら、来年私は生きてないかもしれないと思っちゃうんです。

だから生きている喜びをたくさん、たくさん感じて今を生きてます
明日死ぬとしても悔いはありません。





ではもうお一方


『民間初の刑務所出所者の支援をプロデュースする女性』

“NPO法人日本ソーシャル・マイノリティ協会”
この団体の名前に聞き覚えのある方も多いはず。
そう

新宿救護センター駆けこみ寺
玄さんの組織!

その中で日本初、
「刑務所出所者と家族に対しての再チャレンジ支援」の事業が行われている。
実は、一人の女性がその発足に大きな力を注ぎ込んだ。

ここ数年、ずっと自分の最期・死を考え続けた。
残された限りある時間、その全ての時間を納得して生きて行きたい!!
心からそう思うようになった。

さあ・・・
NPO法人日本ソーシャル・マイノリティ協会
新宿救護センター・再チャレンジ事業責任者
福田房枝様の登場です!

「ド素人だから踏み出せた第一歩」

4人姉妹の末っ子
両親は男の子を待ち望んだが生まれてきたのは私。

父は仕事から飛ぶように帰って来て

「男か?女か?」

女の子ときいた父は無言で遊びに行ってしまったそうです。

親の期待に添うよう頑張る子供になっていました。

親戚が集まった時の母は

「うちの房枝は素直で気立てもよく、卒業式には答辞も読んだ」

といつも自慢話。

心の中で
もう止めて言わないで
と悲痛な叫び。

私の全てではなく良い子の面だけを褒められている感じ。

母は男の子が産めなかった言い訳をしていたのかも。

親の希望で銀行へ就職
将来は支店長の妻?

想像したらつまらなく1年で退職。

男性に使われず女性が自立して働ける職業として保育士を選択し
夫の転勤で東京へ。

知り合いゼロからのスタート。

子育て仲間が欲しく7,000名の署名を集め
児童館を建設しました。

雑誌の取材を受けた縁で雑誌の編集をする事に。

ド素人だったが編集の仕事は面白く
夢中で頑張りいつのまにか編集長。

取材で作家・芸能人・政治家など多くの方と出会いました。

そしてチャイルドラインやママパパラインで色々な人の
心の叫びを聴いて来ました。

もうNPO活動は25年。

今回の刑務所出所者・再チャレンジは
朝、座禅を組んでいる時に突然閃いて
私自身も不思議な感じ。

人は自分の存在を認めて欲しい生き物で
自分が生きていて良いのだと実感したいのです。

それが上手く出来ないと
自殺、虐待、いじめ、鬱という現象として現れます。

だから“犯罪を犯した人が特別な人”ではなく
皆どこか紙一重。

今思うと本当の怖さを知らないから
始める事が出来たのかもしれません。

でも刑務所出所者やその家族の方が
住みやすい社会は私自身も本音を
さらけ出し安心して暮らせる世の中だと思うのです。

だからこれは私や次につながる子供達の幸せの為でもあるのです。

利他の人たち

 おはようございます。

最幸に元気ですか!!

いつもありがとう♪


立春がすぎて寒さもひと段落してきた気がするね。

では今日もすごい人御二方を紹介しちゃうね。

 


まずはこの方


『日本初のアクティブシニアコミュニティを作り出した男』

日本人全人口のうち
65歳以上が1/3、
50歳以上の割合は半分以上という
超高齢社会である。
 
多くのシニアの方は、お金、孤独など多くの不安を抱えている。
 
そんな中、シェアリングの長所を活かし、生活費を下げて生活レベルを上げる
新しい長生きの形を実現した男がいる。

日本の明るい老後社会の為に
日本初のシニアが輝ける街を作り上げた人物の登場だ。

さあ・・・
株式会社スマートコミュニティ
代表取締役社長
山内成介様の登場です!


「新しい長生きのカタチ」

私の曽祖父は任天堂の創業者。

大学を卒業して任天堂に就職をしたのですが、
頑張って働いても先代が作った会社、

そういう見られ方をしました。

一念発起をし起業をして、自分の名前で立ちたいと
思いはじめました。

ただ、周りに起業の相談をしても、皆が反対しました。

人からの評価は気になっていたものの仕事自体は順風満帆で、
会社にいるのが非常に心地が良く、
会社を辞めるという踏ん切りがなかなかつきませんでした。

取引先と祇園にお酒を飲みに行けば、それはそれは楽しいですが、
家に帰れば、決断できない自分に自己嫌悪を感じる毎日。

悶々とした思いを抱えたまま5年が経過した時、
先は何も決まっていないけど、清水の舞台から飛び降りたつもりで辞めようと
決断をしました。

退職後、大きなきっかけが訪れました。

アメリカに元気なシニアの方が集まった街があるということを聞きつけ
現地に見に行った時、驚くべき光景を目にしたのです。

その街に住んでいるおじいさんやおばあさんの目が
キラキラと輝いていて、いきいきと暮らしていたのです。

その一方で、日本では周りを見渡せば、
不安を抱えながら毎日を過ごすシニアの方が多かった。

日本人の老後の生活を明るくしたいという思いで
日本で初のアクティブシニアコミュニティを作ることを決めました。

アクティブシニアコミュニティとは、
それぞれがプライベートな居住空間を持ちながら、
音楽、ゴルフ、陶芸などの趣味に打ち込む施設が充実している
大人の学生寮なのです。

皆さん、本当にアクティブに日々を過ごしておられます。
79歳で杖を着いて入ってきた方が、周りの元気な方に刺激を受けて
なんと、杖無しで歩くようになられたばかりか、
今では自転車でダイエーに買い物に行っておられます。

皆さんの、イキイキした笑顔を見ることができ、うれしい限りです。

多くの方々のご協力の賜物で、私があのとき衝撃を受けた光景を
日本で実現することができました。

これからも、日本に新たな老後の過ごし方を提案していきます

 

 

ではもうお一方


『人を繋いで国際平和に貢献する男』

世界が危機的状況の中
ソーシャルビジネスの未来を切り開くことに使命を燃やす男がいる。
 
一人一人が力を持ち寄り
どんな難問でも解決できるようなシステムを次々と実現。
 
オンラインで署名活動ができる署名TV、
ワンクリックでNPO/NGOに募金ができるイーココロ!、
平和で持続可能な社会実現のための国際平和映像祭・・・
 
彼から次々と発信されるソリューションで世界が変わる!

さあ・・・
ユナイテッドピープル株式会社
代表取締役
関根健次様の登場です!


「動けば変わる、人は変われる。」

大きな転機が3つありました。
 
1つは、4歳のときに目の前で友人が車にはねられて死んでしまったときです。

その時に、初めて人の命を感じ、
母にその彼の為にも一生懸命生きなさいと言われた記憶は忘れられません。

それから漠然と20才までは自分の好きなことをして
20才を過ぎたら人の為に役に立つ人生を生きたいと感じてきました。
 
2つ目は、アメリカの大学在学中にバックパッカーで世界中を旅行しているときに
エルサレムで一人の日本人にあって、
「今は安全で、みんな日本人が大好きだから、ぜひガザ地区に来て欲しい」
と誘われたことです。

看護士だった彼女と病院を訪ねて、病院前の広場で子供たちと遊んだときに、
将来の夢を聞いたら、一人の子が、
「爆弾を作る仕事をしてたくさんの人を殺したい」
と聞いたことはショックでした。
聞くと小さい頃に両親が目の前で爆弾で殺されたそうです。
 
彼たちとの出会いは、
「争いをなくしたい。人を繋いで世界の課題の問題解決をする。」という
私の人生の課題を与えてくれたと思っています。
 
3つ目は、社会人になった25歳のときにがむしゃらに働いていて、
倒れて救急車で運ばれて点滴をうけた時です。
この時に死んでいたかもしれないので
なにか人の役に立つことをしていこうと決意して起業しました。
起業はいつかしようと思っていましたが、もうその時しかないと感じました。
 
起業当初の初年度は、計画の500分の1の寄付金しか集まらず、
落ち込んだ時に師と仰ぐ人から
「人間ジャンプする時には、しゃがまないとジャンプできない。
関根君はまだしゃがんでいないね。」
と言われ立ち直れました。
 
この活動を通じて、
全ての人が友達になれる平和な世界を作りたいと思っております。


箸先五分、長くて一寸

 
おはようございます。

元気ですか!!

いつもありがとう♪


今日はあたたかいね。

そろそろ花粉が心配な季節(汗)

みんな大丈夫!?



では今日も行きます!!




【箸先五分、長くて一寸】


小笠原敬承斎(おがさわらけいしょうさい)氏の心に響く言葉より…


最近は箸(はし)をクロスさせながら持つ人や、握りこむように持つ人など、かえって難しいのではないかと思うような箸遣(はしづか)いをする人が多い。

食事ができればそれでよい、という考えもあるであろうが、このような箸遣いで食事をすると、一口分以上の分量を口に運ぶことになる。

その結果、口元や箸先(はしさき)を多く汚してしまうなど、相手に不快感を与えてしまう可能性がある。


一方正しい箸遣いを身につけることによって、細かいものを取る、裂く、ちぎるなどの動作が容易になる。

つまり、正しい箸遣いは、器の中で一口に相応しい量を箸でつまんでから口に運ぶことができるのだ。


「箸先五分、長くて一寸」(一寸は約3.03センチに当る)といわれるように、箸先の汚れは少ないほどよい。

これは、同席者がこちらの箸先に視線を向けたさい、不快な印象を与えずに済むためにも大切な心得である。


正しい箸遣いは、感謝の気持を表すことに繋がる。

焼き魚一つとっても、魚の命、魚を獲(と)る人、魚を運ぶ人、魚を売る人、魚を調理する人…そこにはたくさんのパワーが存在している。

こうした食材や人々の労苦を頂戴する、ということに対する感謝を表現しながら食事をすすめるのは、いつの時代においても忘れてはならないのではないだろうか。


正しい箸の持ち方は、次の通りである。

まず、箸は箸先から三分のニあたりのところを持つ事。

上の箸は、人差し指と中指ではさみ、親指で支える。

下の箸は、親指と人差し指のつけ根にはさみ、薬指で支えて固定する。


こうした箸遣いに関して、曾祖母から先代に伝えられた昔話がある。

小笠原家に仕えていた奥女中たちは、みごとに小笠原流を身につけて客の給仕をしていたという。

それだけに、客が帰ると、使用された箸を火鉢の灰の中へ入れ、箸先にどれほどの灰がつくのかを計り、その客の嗜(たしな)みについて語り合ったらしい。

なんとも意地悪な話ではあるが、箸先の汚れが、その人の嗜みを語ってしまうことは事実である。


また、楊枝(ようじ)を使う時は、脇を向いて使用するのはもちろんのこと、使い終わった楊枝は持ち帰ることが当然だったのである。

懐に入れることまではしなくても、使用済みの汚れた楊枝の先が、同席者の視界に入らない程度の配慮は忘れないでいただきたいものである。


また、楊枝とともに注意いただきたいことの一つに、おしぼりの扱いがある。

おしぼりは、これから食事をする人の手を清潔にするためにと用意されているものであり、汚れた顔を拭うためのものではない。

どんなにおしゃれで素敵な人であっても、おしぼりで顔を拭いた瞬間、品位に欠けた印象を作りかねない。


このように、小笠原流にかぎらず、相手に合わせ、自己を慎み、感謝の気持を忘れることなく食事を進めることは、国を越えて、人としてわきまえておくべきこころがまえの一つといえよう。

『誰も教えてくれない男の礼儀作法』光文社新書



昨今は、ファミレスや食堂で見かける食事のシーンには、がっくりすることがある。

一番気になるのは、食事の最中に肘(ひじ)をテーブルに付けて食べていることだ。

片方の肘をテーブルに付けて食べれば、当然姿勢も悪くなる。


他には、「足を組んで食べる」、「ぺチャぺチャ音をたてて食べる」、「携帯をいじりながら食べる」、「新聞やマンガを見ながら食べる」、「片方の手がテーブルの下にある」、「迷い箸」、「箸をなめる」、「箸を直接テーブルやお皿にのせておく」、「子どもが走り回る」、「食べたあとテーブルの下を汚したまま」等々。


かつて、パリのレストランでみた食事のシーンが忘れれない。

そのレストランは、お客様の数より、常に料理人と給仕人の数が多いので有名な三ツ星レストランだった。

若い夫婦二人と、中学生くらいの男の子と小学校の高学年くらいの女の子の4人家族のテーブルだったが、男の子は、きちっとジャケットを着てネクタイを締め、女の子は清楚なワンピース姿。

もちろん、男性はスーツに、女性も品のいい装(よそお)い。

食事の最中、最初から最後まで子ども達は席をたたず、背すじをのばし、小声で談笑しながら、給仕を受けるたびに全員が笑顔で「ありがとう」と言っていた姿には、感動のあまり涙が出そうになった。

「ああ、こんな素晴らしい躾(しつけ)を子どもの頃からしているのだ」、と。


レストランでは、お金を払えばお客だとばかり、だらしのない服装や品位の欠けたマナーはあまりにさびしい。

逆に、料理を受け取るたびに「ありがとう」と感謝する人のテーブルには、暖かい思いやりの気持があふれている。


食事の場は、子どもの頃からの躾(しつけ)が一瞬にしてわかってしまうところだ。

己を慎み、感謝の気持を持ち、まわりの人を和(なご)ませるような食事を心がけたい。







続いてすごい人を紹介しちゃいます。




あまりにも坂本龍馬が好きすぎて・・・
あまりにも坂本龍馬に影響されて・・・

そこから、歴史が好きになった。

でも、その好きのレベルがハンパではない。

結果的に、“歴ドル”なる歴史アイドルというジャンルを確立して
なんと、歴史にハマるきっかけだった
坂本龍馬が主人公のNHK大河ドラマ
“龍馬伝”の最終回にも登場してしまった!

好きを仕事にしよう!

さあ・・・
美甘子様の登場です!


「我為すことは、我のみぞ知る」

龍馬との劇的な出会いから、歴史の勉強にはまっていた私は
自然と読書が好きになり、大学卒業と同時に大手印刷会社へ就職しました。

希望した部署は勿論、出版部門。
でも、配属されたのは全くジャンルの違う部署。

好きな事を出来ない苦痛と人間関係のこじれで
2年目にして体調を崩してしまいました。

出勤時、会社が近づいてくると体が震えてしまう程。

病院で診断してもらったら、結果はうつ病。

結果を知ってさらに落ち込み、周囲の人には「死にたい」と漏らすようになり、
気付けば自傷行為までしていました。

病状が酷くなったため、病院へ入院することに。

「私はダメになってしまうのかな・・・」

そんな気持ちで入院生活が始まりましたが、
病院での生活は想像に反してすごく楽しかったんです。

先に入っていた同室の人は、私よりももっと辛い過去の体験を
私を励ますために明るく語ってくれました。

“この人達に比べれば、私の悩みなんてちっぽけなもの”

そう感じた時、すごく楽になりました。

退院してからは、今までと違う楽しいことをしてみたいと思い、
軽い気持ちで今の事務所のオーディションを受け、
グラビアアイドルとして活動をしていました。

“歴ドル”というスタイルをつくるキッカケをくださったのは
お笑いコンビ“ダイノジ”の大谷さん。

一緒になったお仕事の楽屋で、歴史の話で盛り上がり、
「美甘子ちゃんは、グラビアよりも歴史好きをアピールした方が良いと思うよ!」
というアドバイスを頂いたのが始まりです。

“歴ドル”産みの親の大谷さん、
うつ病を乗り越えるきっかけとなった病院の方々、
サポートしてくれた両親には本当に感謝しています。

そして夢だった著書を出版することも出来ました。
当初とは違う形でしたが、夢が叶って嬉しかったです。

皆様は、“夢”持っていますか?

どのようにしたら夢が叶うか、
実は何通りも方法があるんです。

意外な方向で叶うこともあるかもしれません。

どんどん夢の叶う楽しい人生を歩みましょう!



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